一見すると
少しくだけた、いや少し下品な「運が悪い」の言い方。
理屈では、それだけ。
理屈では。
本当の意味
Sfiga とは、十分起こり得て、統計的にも説明できるのに、個人的には到底納得できない出来事だ。
ただ何かが失敗するだけでは足りない。
妙に正確な形で失敗しなければならない。
洗車したばかり?
サハラの砂が降る。
払い戻し不可の航空券を買った?
発熱。
やっと駐車場所を見つけた?
臨時駐車禁止。
子どもが百回転んでも何も起きない。
百一回目、30センチの高さから転んで、よりによって前歯だけ折る。
それはもう普通の不運ではない。
それが sfiga だ。
いかにもイタリア的なところ
イタリア人と sfiga の関係はなかなか複雑だ。
信じてはいない。
でも何より、挑発したくない。
文法的には正しくても、まともな人なら口にしてはいけない文がある。
「最近、全部うまくいってる。」
「今年はまだ一度も病気してない。」
「珍しいね、渋滞がない。」
「子どもたち、やっと寝た。」
すると誰かがすぐ止める。
「それ、言わないほうがいい。」
もう遅い。
言ってしまった。
アンチ sfiga の作法
もちろん今は21世紀だ。
人工衛星もAIも精密医療もある。
だからこそイタリアでは 鉄に触る。
木に触る人もいる。
もっと身体的な方法を選ぶ人もいるが、ここでは省略する。
大事なのは、5分前にこう言った無謀な人が崩した宇宙の均衡を戻すことだ。
「大丈夫。何も起きないって。」
不運と sfiga の違い
不運は電車に乗り遅れること。
Sfiga は、まだ電車が見えているので全力で走り、扉までたどり着いた瞬間、目の前で閉まること。
しかも運転士と目が合う。
不運はがっかりさせる。
Sfiga は 人に話したくなる物語を生む。
読み解き方
Sfiga は 宿命論・迷信・統計が矛盾しなくなる一点だ。
偶然に意図を与える、イタリア流のやり方でもある。
本気で宇宙が自分を嫌っていると思っているわけではない。
ただ、ときどきは
もう少し大ざっぱに不運を配ってくれてもいい。

sfiga の社会的効用
Sfiga には実は社会的な役割もある。
イタリア人が小さな災難の見事な連鎖を語る時、必ずしも解決策が欲しいわけではない。
「統計的にはあり得るよ」なんて説明はいらない。
知っている。
必要なのは、誰かが 災難の完成度を認めること。
聞く。
吟味する。
ゆっくりうなずく。
そして最終判決を下す。
「Madonna, che sfiga.」
何一つ解決していない。
でも少なくとも、宇宙については自分が正しかった。